ちいさなボウ〈下〉

 

→ ちいさなボウ〈上〉から続く

  

翌日。

立派な蝉の姿になったボウが、公園の木立の中にいました。

 じー

 つくつくぼうし、つくつくぼうし……

 ほいよー、ほいよー、ほいよー

お腹を震わせると、どうしてこんな音が出るのか、ボウは知りません。

どうして、自分がひっきりなしにこんな音を出しているのかも、わかりません。

でも、ボウはいつまでも、いつまでも音を鳴らします。

 「まだ、蝉が鳴いてるよ」

 「本当だ。秋になって、蝉なんていないかと思ったよ」

 「きっと、出遅れちゃったんだね」

 「ちょっと寒くて、かわいそうだね」

木の下から、そんな声が聞こえてきます。

誰かが、ボウの方を見上げているようです。

なにを言われているのか、ボウにはわかりません。

でも、自分が注目されていることだけはわかります。

きっと、ボウの鳴らす音が素敵だって言ってくれているのでしょう。

嬉しくなって、ますます張り切ってお腹を震わせます。

こうして音を鳴らしているのは、ボウだけのようです。

同じような姿をした仲間に出会うこともありません。

同じような音を聞いたこともありません。

もちろん、ボウは仲間というものを知りません。

でも、なんだか変です。

だって、雀(すずめ)や鴉(からす)といった鳥たちも、蝶(ちょう)や飛蝗(ばった)といった虫たちも、同じような格好をした誰かがいて、同じような音を出しています。

どうして、ボウだけが、同じような格好をした誰かに出会うことがなくて、同じような音を聞くこともないのでしょう。

そのうちに、ボウはあることに気がつきました。

木の下を歩いているみんなには、誰ひとりとして同じ格好の誰かはいないのです。

ちょっと似たような誰かはいても、大きさだけでなく、形や色まで違っています。

口を動かして音を出しているようですが、それが通じている誰かもいれば、まったく通じなくて、がっかりして別れていく誰かもいるようです。

それだけではありません。

ひどく嫌な感じになって離れていく誰かもいました。

ボウには、木の下の誰かが人間だということを知りません。

人間は、体格や性別、肌・髪の色だけでなく、服や帽子、靴や持っている荷物によってさえも、みんなそれぞれに格好が違ってくるものです。

そして、人間は様々な言語を話します。

違う言語しか話せない者同士は、どうしても理解できないこともあります。

一方で、同じ言語を話しても、いろいろな理由によって、理解し合えないことだってあります。

時には、喧嘩することだってあります。

ボウが木の上から眺めていたのは、そんなたくさんの誰かでした。

ボウは思いました。

同じ誰かがいなくても、同じ音を耳にすることがなくても、変じゃないんだな。

同じ音でも、がっかりすることすらあるんだな。

それからは、自分と同じ格好の誰かに出会わないことも、同じような音が聞こえてこないことも、気にならなくなりました。

もっとも、毎日がいつも穏やかなものだったわけではありません。

ある晴れた日、木の高いところで、気持ちよく音を鳴らしていた時のことでした。

急に、気持ちがきーんとなったのです。

蟻のぞわっとした嫌な感じよりも、もっと怖いような気がしました。

その瞬間、横合いから、黒い大きな影がものすごい速度で迫ってきました。

驚いたボウは、ありったけの力で斜めに飛び上がります。

間一髪、鴉(カラス)が、ボウのお尻の先をかすめて飛び去っていきました。

鴉(カラス)ばかりではありません。

いろんな鳥たちが、ボウのことを狙っていました。

ボウには、鳥たちのことはよくわかりません。

でも、危険が近づくと、必ず気持ちがきーんとなるのです。

それがどうしてなのか、ボウにはわかりませんでしたが、おかげで難を逃れられました。

そうしてボウは、音を鳴らし続けました。

木の下からは、毎日、誰かがボウの方を見上げてくれました。

そういう誰かがいるたびに、いつもよりも一生懸命にお腹を震わせ、音を鳴らします。

でも、そういう誰かは下から眺めているだけで、素敵な音を出してくれるわけではありません。

音を鳴らしているのは、ボウばかりです。

そのうちに、なんとなくつまらなくなってきました。

そうしたある日のことでした。

ボウは、公園の近くの坂道まで出かけていって、音を鳴らしていました。

その坂道には、たくさんの木が並んでいてました。

たしかに、公園には、もっとたくさんの木があります。

でも、坂道の方が、たくさんの誰かが歩いているので、ボウはとても気に入っていました。

 じー

今日の最初の音です。

さあ、これからだ。

気持ちを盛り上げて……。

その瞬間です。

たくさんの誰かの、たくさんの声が上がりました。

坂道の、向こう側から聞こえてきます。

「わあ」とか「きゃあ」とか、なんだかわからないけれど元気で楽しそう。

ボウは、坂道の反対側の楠(くすのき)に飛び移ってみました。

そこは、幼稚園でした。

子どもたちが、園庭に出て、秋の運動会の練習を始めたのです。

スピーカーから、音楽が流れてきました。

もちろん、ボウは幼稚園も、運動会も、それに音楽も知りません。

でも、きっと、なにか素敵なことにはちがいありません。

試しにボウは、歓声と音楽に合わせて、お腹を震わせてみました。

 じー

 つくつくぼうし、つくつくぼうし……

なんて気持ちがいいのでしょう。

ひとりぽっちで音を鳴らしているうちは、ボウはとても目立っていました。

道ゆく誰かが見上げてくれて、得意な気分になれました。

でも、それは、今、みんなと一緒に音を鳴らすのとは大違い。

スピーカーの音楽に合わせて、

 じー

 つくつくぼうし、つくつくぼうし……

子どもたちの歓声に合わせて、

 ほいよー、ほいよー、ほいよー……

なんて楽しいのでしょう。

こんなに素敵なことがあったんだ。

ボウは、それはもう嬉しくなって、これまでにないくらい一生懸命にお腹を震わせました。

音を鳴らせば鳴らすほど、疲れるどころか、元気になっていくようです。

子どもたちの歓声も、ますます元気に響きます。

もう、ボウの鳴らす音に、木の上を見上げる誰かはいませんでした。

注目されて、得意になることもできません。

だって、みんなの歓声と音楽の方が、たったひとりのボウの鳴らす音よりもずっと大きな音だったから。

でも、そのことを、ボウはいっこうに残念に思いませんでした。

そんなことよりも、今、本当に楽しいのです。

それからのボウは、公園で朝ごはんを食べ終えると、幼稚園の楠(くすのき)まで出かけていきました。

そうして、運動会の練習の音楽と歓声と一緒になって、お腹を震わせました。

太鼓の音にびっくりして、飛び上がったこともありました。

でも、慣れてくると、太鼓と一緒に音を鳴らすのも、とってもいい気分です。

それは、真っ暗な土の中の居心地のよさとも違いました。

それは、自分だけが注目されて、得意になった心持ちとも違いました。

ボウは、木の上でこう思いました。

世界は、こんなにも楽しくて素敵だったんだ。

それが、ボウの知ることとなった世界でした。

そのちいさくて黒くてまあるい目に、なんの風景も映らなくなる日が、もうまもなくやってくるでしょう。

ボウは、そのことを知りません。

でも、なんとなく、そんな気がしていました。

だからといって、この素晴らしい世界が、今、目の前から消えてしまうわけではありません。

だって、今、ボウは確かにここにいるんですもの。

やがてやってくるその日まで、ちいさなボウは、その素晴らしい世界と一緒になって、精いっぱいお腹を震わせ、音を鳴らし続けることでしょう。

    ー 完 ー