去る8月7日、二十四節気は立秋を迎えました。
七十二候では涼風至(すずかぜいたる)を初候とし、今は寒蝉鳴(ひぐらしなく)。
「ひぐらし」というと、「カナカナカナカナ……」と鳴く蝉を想像されるかもしれません。
けれども「寒蝉」といった時には、いわゆる「ヒグラシ」ではなく、本来は「ツクツクボウシ」のことを指すとか。
「ツクツクボウシ、ツクツクボウシ……オーシーツクツク」などと鳴く蝉。
いずれにせよ晩夏に鳴き始める寒蝉は、秋の季語です。
ツクツクボウシといえば、一編の短編小説「ちいさなボウ」をこのサイトで公開しました。
今年の春先のこと。
随分と前のことのような気がしていましたが、まだ半年と経っていないのですね。
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ちいさなボウ〈上〉
この日、ちいさな蝉が土の中から出てきました。 ツクツクボウシの子どもです。 名前は〈ボウ〉。 ボウの頭の上には、柔らかい ...
土のなかから出てきた、ちいさなボウ。
その黒い目がとらえた、危険に満ちた、しかし多彩で、時に心踊る世界。
その世界は、ボウにとって確かにそこに存在した。
今を生きるすべての人に贈る、ちいさな物語。
そんな触れ込みで、ひっそりと公開した短編。
実は、この短編は私にとってはしんどいものでした。
短い時間で書き終えたものの、とても消耗したことを覚えています。
生きることに、ちょっと疲れていた頃だったからかもしれません。
生きることの意味を、真正面から描いたからこそだったかもしれません。
そして今日、8月15日は終戦記念日。
生きることを理不尽に奪われた、数多くの戦没者の方々を思う。
その戦争は、お盆の季節に終わった。
ご先祖様があの世から戻って来られるお盆。
この季節には、いつもとは違うざわつきや気配を、ふと感じることがある。
生と死の境は、いずこにか。
その盆の入りの夕暮れ。
鎌倉の実家で迎え火を焚いた時、ツクツクボウシではない、いわゆるヒグラシの声が聞こえていた。
父が他界した朝、その亡骸とともに病院から実家に戻った時のことが思い出される。
葬儀社の方たちが棺を運んでくださった。
夜明けの頃、朝露に濡れた草木が溢れるばかりの谷戸。
なんの音もない。
ただ、朝の透明な空気が張り詰めていた。
その谷戸の小道に足を踏み入れた瞬間、ヒグラシの見事に鮮烈な音が響いた。
高々としたその音は、今も耳に残っているし、これからも間違いなく残り続ける。
暦は秋。
夏の記憶を一つ一つ確かめながら、季節は秋へと色を変えていく。
なんて言ってはみたものの、まだまだ随分と蒸し暑い。
けれども、陽の光や風の匂いには確かに秋の気配が漂っている。
夏の名残を惜しみながら、やがて来る秋の楽しみに想いを馳せる。
平和であるからこそ。
それに尽きる。