2025年立夏・蚯蚓出:ミミズ文学

雨模様から一転しての晴天。

そしてまた、週末からは雨のようです。

まさに「五月雨」と言いたいところですが、「五月雨」の「五月」は旧暦のこと。

となると、「五月雨」は梅雨を表す言葉です。

 

では現在はというと、七十二候では「蚯蚓出(みみずいずる)」。

蚯蚓とは、中国語でミミズのこと。

冬の間、地中に眠っていたみみずが地上に出てくる季節です。

 

公園の芝の中に、点々と散らばっていた小さな盛り土。

みみずが出てきた跡だとか。

ミミズは土を食べ、そこに含まれる有機物や微生物、小動物を消化吸収した上で粒状の糞として排泄する。それによって、土壌形成の上では、特に植物の生育に適した団粒構造の形成に大きな役割を果たしている。(Wikipedia「ミミズ」より)

土壌改良のために有益で、農作業の力強い味方として古くから大切にされてきました。

 

とはいえ、あの見た目ですから、和歌に詠われるはほとんどないのはご想像の通りです。

ふと「みみず」が登場する小説があったような気がして、Googleで検索してみました。

そこにヒットしたのは「みみず先生の歌」。

作者の村山籌子は、1903年、香川県高松市に生まれたプロレタリア系の児童文学作家。

みみずが一人称で語る「みみず先生の歌」が青空文庫に公開されています。

でも、それではありません。

 

ここで記憶が喚起されたのか、「みみずくん」の呼び名が浮かびます。

それに対置されるのは「かえるくん」。

村上春樹の短編小説『かえるくん、東京を救う』までたどり着くのに、そう時間はかかりませんでした。

 

「真の恐怖とは、人間が自らの想像力に対して抱く恐怖のことです」と言う「かえるくん」。

東京を救うために、「片桐さん」を相棒に「みみずくん」と戦います。

現実(と思しきもの)、そして想像や夢。

その間を行き来する、村上文学の真骨頂。

 

そもそも現実とは、人の認識が創り上げたに過ぎない、いわば想像の産物ともいえる。

認識を変えれば、現実もまた見え方は変わる。

現実だと思っていることが、実は自分の想像によるものに過ぎないとしたら……

 

ところで、妙に文学的な「かえるくん」。

トルストイの『アンナ・カレーニナ』やドストエフスキーの『白夜』などが登場します。

未読の『白夜』でも、読んでみようかしらん。

新潮文庫の100冊に心躍ったのは、もう何十年も前の夏休みのこと。

久しぶりに小説を手にしてみたくなるのは、夏が近いから……でしょうか。