江戸時代、川柳で「軽井沢」といえば「飯盛女」すなわち宿場女郎のことを指していました。中山道の宿場町だった軽井澤・沓掛(中軽井沢)・追分の浅間三宿には、それほど多くの飯盛女たちが働いていました。
その後、軽井沢がいかにして昨今言われるような「美しい村」へと変貌を遂げたのか。そういった軽井沢の歴史を概観いただけるよう、「浅間山ろく玄鳥記」シリーズの第1作『闇夜の雪』のまえがきを転載いたします。小説のモデルとなった方々の姿を通じ、江戸の頃から連綿と続く、軽井沢の風土にも触れていただけるものと思います。
「まえがき」は、Amazonの電子書籍Kindleの無料サンプルでもお読みいただけます。よかったら、お気軽にどうぞ。

まえがき
本書は、2020年8月に発行した『闇夜の雪』(浅間山ろく玄鳥記シリーズ1)の新装版となります。初版は〈餡住実茶〉の筆名にて発刊しましたが、この度、実名で発表させていただくことといたしました。その他、ごく一部に細かな改訂はありますが、内容面に変更はございません。
まずは初版をお読みくださった読者の皆さまに、心より御礼申し上げます。人生の貴重な時間を無名の著者の作品を読むことにあてるという、冒険心に溢れると同時に心温かな皆さまのお力により、いまだ作品を世に出し続けることができています。本当にありがとうございます。
旧版をお読みいただいた方はご承知の通り、本書は、江戸時代の軽井澤、沓掛(現代の中軽井沢)、追分の三つの宿場町を舞台の中心としています。
軽井沢といえば、堀辰雄の『美しい村』に代表されるような、高原の清涼なる別荘地というイメージを抱いている方が圧倒的多数であろうと思います。ところが、江戸時代に目を転じれば、火山性の大地は「五穀生ぜず」(貝原益軒『岐蘇路記』)と評される、極寒の貧しい地域でした。そこに設置された浅間三宿の宿場町には旅籠屋や茶店が建ち並び、飯盛女と称される娼婦たちが、各宿に数十から数百人も抱えられるほどの一大歓楽街でした。
その頃の繁華で猥雑な浅間三宿を舞台にすることは、軽井沢の清涼なる別荘地のイメージと相反し、あるいは、それをほとんど破壊するかのようでもあり、眉をひそめる方もいらっしゃるかもしれません。
けれども、当時の浅間三宿の風土が、現代においてもなお、軽井沢界隈の底流に色濃くあるものと感じられてなりません。むしろ、その歴史あってこそ、軽井沢地域を多くの観光客や別荘族の行き交う街たらしめているのではないでしょうか。
もちろん、売買春が排除された点では、江戸時代の宿場町とは大いに様相を異にします。江戸幕府の終焉とともに、伝馬制が廃止され、宿駅やそれを支えてきた旅籠屋は軒並み衰退の一途をたどりました。飯盛女は解放され、あるいは他の地域へと移転していって以来、浅間三宿は歓楽街としての性質を失っていきました。
人が去り、すっかり寂れた軽井沢にやって来たのが、外国人宣教師や明治政府のお雇い外国人たちでした。日本の蒸し暑い夏を避け、冷涼な軽井沢の地にやってきた彼らは、日本政府による窮屈な統制から離れることも考えていたことでしょう。家族や友人・知人らと気兼ねなく時を共にするため、軽井沢に夏だけのコミュニティを形成しました。
それが、軽井沢の別荘文化の始まりです。
その後、一定の地位や資産のある日本人も軽井沢に別荘を持つようになると、別荘コミュニティは拡大し、多くの方がイメージするような清涼なる軽井沢の別荘地が出来上がります。その頃から、軽井沢は華美さを加えていくようになり、質素を旨とする宣教師たちの一部は野尻湖などに移っていったようです。
その後、さらに開発が進められ、より手頃な別荘が一般の中流層に向けて売り出されると、軽井沢は急速に大衆化していきます。
昨今では巨大アウトレットモールの人気が非常に高く、休日ともなれば周辺地域は大混雑となっています。かつては軽井沢の代名詞であった別荘地の影が薄れるほどとなり、軽井沢のあり方も新たな局面を迎えているといえそうです。
このように外国人から日本人の特定の層へ、特定の層から一般の層へ、別荘からアウトレットモールが目をひく町へと、軽井沢のあり方は時とともに変わってきました。
ただ、いずれの時代にあっても、地域外からの到来客を迎える地であることに変わりはありません。江戸時代には旅籠屋や茶屋が、現代においてはホテルやペンション、レストランやカフェ、そしてアウトレットモールがその役割を担っています。江戸の頃の宿場町の歴史あってこそ、軽井沢の人々は、外来の多様な人々を難なく受け入れ、その世話に奔走し、結果、別荘地として栄え、多くの観光客が訪れる地となったのではないでしょうか。
一義には、個々の方々の努力により、そうであったということではあります。が、数百年にわたるその努力と営みの蓄積は、もはや浅間三宿という土地の記憶とでもいったような、より概念的なものに昇華されているようでもあります。
そういった浅間三宿の土地の記憶の気配を感じ、それを明確に意識するようになったのは、軽井沢に暮らして一年と経たない頃でした。
そのきっかけとなった出来事は、まったくの偶然によるものでした。
「あちらに面白い店があるから、行ってみるといい」
そうお伺いしたのは、旧軽井沢銀座にある喫茶店〈江戸屋〉でのことでした。SNSで知り合ったご夫妻とお会いするために訪れたもので、江戸時代の脇本陣(大名、勅使など、身分の高い者が宿泊する本陣に対し、その予備的役割を担った、本陣に次ぐ格式を有する旅籠屋)のご末裔の方が経営されていることは、後になって知りました。
その教えによって訪ねた「面白い店」が〈三度屋〉でした。
三度屋は、旧軽井沢銀座から西に伸びる旧三笠通りを入った少し先にあり、江戸時代には、やはり脇本陣だった三度屋のご末裔、佐藤袈裟孝(けさたか)さん・洋子さんご夫妻が営まれていました。
袈裟孝さんは、三船敏郎氏の株式会社三船プロダクションで、長年にわたって小道具を担当されていました。『太平洋の地獄』(1968年)や『風林火山』『赤毛』『新撰組』(いずれも1969年)などの他、数多くの映画や時代劇の小道具を担ってこられました。
その後、小道具のお仕事からは引退され、お訪ねした時には骨董店と喫茶サロンを兼ねた〈三度屋〉を営まれていました。残念ながら2023年に閉店されましたが、時代劇にも登場しそうな江戸情緒溢れる店先には傘がさし掛けられ、暖簾が揺れる風景が、今も鮮明に記憶に残っています。
袈裟孝さんは軽井沢の歴史にも詳しく、その風情あるお店で十年以上にわたり、お話を伺う貴重な機会をいただきました。加賀の前田藩の宿泊を担ったことや、抱えの飯盛女の逸話など、数々のお話が次々と語られるうちに、私のなかに物語が湧き出し、気づいた時には小説の形となって動き出していました。
時は江戸時代ながらも、その物語の中には袈裟孝さん・洋子さんご夫妻が三度屋の〈又八・およう〉となって登場し、沓掛宿では、暮らしていたアパートの大家さんが〈おたね〉となって主人公の世話を焼いています。
現代の軽井沢に、江戸の頃の浅間三宿の歴史が息づいていることを強烈に感じたからこそ、彼ら登場人物たちは時代の壁を通り抜け、江戸の軽井沢に難なく姿を現したようです。
そしてもう一つ、忘れてはならないことがあります。それは軽井沢もまた信州の一地域であるという、当たり前のことながらも忘れられがちな事実です。
軽井沢は、明治以来、多くの外国人や別荘族が海外や都会の文化を引っさげてやってきました。それらを取り入れ、地域の文化たらしめたこともあったでしょう。外来の人々を難なく受け入れるところなど、軽井沢ならではかもしれません。
けれども、軽井沢は断固として信州である、とも感じられます。
山菜を採り、鮒(ふな)や田(た)螺(にし)を煮付け、特に冬の前には、山のような野沢菜、白菜、大根を、各々の家のレシピによって漬け、何十個という柿を軒下に干します。それが厳寒に閉ざされた山間の集落での冬の間の食糧になるとともに、隣近所や親戚・友人らの間でやり取りされ、一種の社交の道具となっています。
こうした信州ならではの暮らしは、外来の文化とは一線を画し、それらと併存しながら、絶妙な距離感をもって失われることなく営まれています。素朴で、どこか気難しいようでいて、実は深々と親切な信州人らしい気質とともに、こうした暮らしもまた浅間三宿の根底を今もしっかと支え続けているようです。
軽井沢に暮らしたのは、2011年5月から2022年の9月まで。
その間に本書『闇夜の雪』と、それに続くシリーズ第2作の初稿を筆しました。そこには、約11年半にわたっての暮らしのなかで感じたことに加え、頂戴した多くの素晴らしいご縁が、自然と織り込まれています。
そして本書に続き、近々、第2作も発刊を予定しています。ひとえに応援し続けてくださった読者の皆さまのおかげです。心より感謝申し上げます。
また、三度屋の佐藤袈裟孝さんには、数々のお話や資料をご提供いただくとともに、江戸時代の風俗・文化に関するご助力を頂戴しております。ここに改めて厚く御礼申し上げます。
そして、袈裟孝さん・洋子さんご夫妻はもちろんのこと、中軽井沢で大いにお世話になった若林榮子さんをはじめとする地元の皆さまなしには、浅間山ろくでの暮らしは、これほどまでに人情味溢れ、心に強く残るものとはならなかったでしょう。軽井沢は故郷であり、あの時の暮らしは人生の宝物です。本当にありがとうございました。
最後に、常に最初の読者となり、表紙や装丁を担当してくれている夫・小宮山巧、そして気長に温かく見守ってくれている両親たちにも、改めて感謝の意を表したいと思います。
本書は浅間三宿、そして信州に暮らす皆さまへの感謝のしるしであるとともに、お読みくださるすべての方にとって、ごく僅かなりとも何らかの心の糧となりましたら幸いに思います。
2025年1月