
「鴻」は大きな雁、「雁」は小さな雁のこと。
「鴻雁北(こうがんかえる)」は春になり、冬の間を日本で過ごした大小の雁が、北国へと帰っていく季節です。この時の雁を「春雁(はるのかり)」とか「帰雁(きがん)」といいます。
一方で、秋に北国から日本へとやってくる雁は、「秋雁(あきのかり)」や「来雁(らいがん)」。
いずれもが、古来より和歌に多く詠われています。
奈良時代に編纂されたとされ、日本に現存する最古の和歌集『万葉集』では、「来雁」(秋)は、秋の訪れに伴う哀愁を感じさせるものとして登場します。
一方で、「帰雁」(春)は極めて少数。春を喜ぶ人間を置き去りにして、北へと帰る雁。そこに心情は載せがたかったのでしょうか。
その後、そういった「帰雁」(春)を訝しむような歌が登場したのは、自然な流れかもしれません。
さらに時代を下ると、雁の歌、特に「来雁」(秋)は大きく数を減らしました。
一方で、「帰雁」(春)については、「ふるさとの花の香りの方が(日本のそれよりも)まさるのだろう」といったように、雁の心情を慮るような表現が見られるようになりました。
そして、『新古今和歌集』の時代となります。平安時代末期から鎌倉時代初期、王朝文化の最終の到達点ともいわれる頃です。
ここでは、「帰雁」(春)・「来雁」(秋)ともに、大いに詠まれるようになりました。特に「帰雁」(春)について、それまでは薄かった悲しみや苦しみといった心情を想起させる表現が、途端、色濃くなりました。
春から連想される「曙」(明け方)。その頃合いに、帰る、あるいは帰るものを見送る。その風景は、恋しい女を訪ねてきた男が、女を残して帰っていくという「後朝(きぬぎぬ)」を連想させる。ゆえに、「帰雁」(春)に哀愁の心情が表現されるようになったのではないか。
そう推測されるるのは、北海道教育大学の長谷川範彰准教授です。
長谷川准教授は、「『新古今集』において多く見られる悲哀の表現で飾られた帰雁歌はこの時期の和歌がいかに感傷性を志向していたかを示しているようにも思われる」と、その論考に記されています。
『新古今和歌集』は、鎌倉時代初期、後鳥羽院の勅命により編纂されました。
朝廷の風紀は大いに乱れながらも、歌人・藤原定家の活躍にみられるように爛熟の文化が湧き立った時代。同時に、鎌倉幕府が朝廷への圧力を強め、幕府と朝廷との対立が急速に深まった頃でもあります。
王朝終焉の気配は、朝廷やその周辺の貴族らにも迫っていたことでしょう。そのなかに編纂されたのが『新古今和歌集』でした。
朝廷に活躍の場を競い合った歌人たちは、その時、己の依拠する華やかなりし文化が去りゆくことへのそこはかとない予感に、無意識にせよ哀愁を深めていたように思われてなりません。
その後、貴族政権を率いる後鳥羽上皇と鎌倉幕府が激しく対立した承久の乱が勃発。敗れた後鳥羽上皇は、隠岐島へと流されます。これを機に貴族政権は急速に権力を失い、鎌倉幕府による支配が決定づけられました。
「帰雁」が春という曙を迎え、心を残しながらも北国へと去っていく。その姿には、終わりつつある王朝文化が投影されたのかもしれません。そのなかにあって、歌人らが「帰雁」(春)に悲哀や憂愁を織り込んだともいえるのではないでしょうか。
素人の個人的な感想です。
【参考文献】
詳しくは以下をご参照ください。興味深いご論考です。