ちいさなボウ〈上〉

この日、ちいさな蝉が土の中から出てきました。

ツクツクボウシの子どもです。

名前は〈ボウ〉。

ボウの頭の上には、柔らかい土が、まだのっかっています。

前脚で、それをよいしょと持ち上げると、綺麗な緑色の苔がほろり、落ちました。

ちいさくて黒くてまあるい目が、かすかに光ります。

ボウは、土のことはよく知っているけれど、苔なんて見たこともありません。

今は、真夜中。

月の光が、まだ羽のないずんぐりとした背中を照らしています。

風が、木立を優しく揺らしています。

でも、ボウは月も風も、それに木も知りません。

でも、木に登らなければならないことだけは、知っていました。

理由なんてありません。

短い6本の脚で、ふわふわした苔の上を一生懸命に走ります。

ほどなくして、ごつごつした木の幹が目の前に現れました。

橅(ぶな)の木です。

辺りは森になっていて、欅(けやき)や椎(しい)、向こうには桜や辛夷(こぶし)の木もありました。

でも、ボウは木のことなんて、ひとつも知りません。

とにかく、目の前にある木に登ること。

どういうわけか、そのことだけは知っていました。

たどり着いた木の幹に、まずは前脚をかけてみます。

木の皮にはたくさんのでこぼこがあって、ちょっと湿っていました。

これなら、ボウの爪にちょうどよく引っかかります。

後ろ足で体を支えて、前足をもうちょっと上へ。

少しだけ登ることができました。

あとは、それを繰り返すだけ。

 いち、に、さん、ほい。

 いち、に、さん、ほい。

だんだん調子が出てきました。

ボウは、ずんずんと上に登っていきます。

おや、誰かがやってきた。

ボウのすぐ横を、ちいさな黒いものが近づいては遠ざかり。

蟻(あり)です。

ちいさな黒い蟻が、ボウのことを気にしながら、行ったり来たり。

もちろん、ボウは蟻のことなんて知りません。

でも、どうしたことか、背中がぞわっとしました。

とても嫌な感じです。

急がなければ。

そうです。

たくさんの仲間たちが、こうして土から出たばかりの時に、蟻に襲われて命を落としました。

もちろん、ボウはそんなことは知りません。

でも、とにかく急がなければならない。

そのことだけは、わかります。

がんばれ、がんばれ。

自分に言い聞かせます。

急いでいるはずなのに、前脚の動きがだんだん遅くなります。

後ろ脚も、重たくなってきました。

蟻は、それを知っているかのようです。

さっきよりもずっと近くにやってくると、とうとうボウの後ろ脚にちらっと触れました。

すぐに遠ざかっていきましたが、またやって来ます。

今度は、お腹の横をちらっ。

ボウはちいさな黒いまあるい目で、前だけを見て、必死に登っていきます。

また蟻が近づいてきました。

ボウの前脚にちらっ。

その時でした。

ボウの前脚が自然に動いて、自分でもびっくりするくらい素早く、空を切りました。

その勢いにびっくりした蟻が、全速力で逃げていきました。

幹の向こう側に見えなくなった蟻は、もうこちらにはやって来ませんでした。

これでもう、ぞわっとした嫌な感じにならなくてよさそうです。

ボウは、ちょっと嬉しくなりました。

月明かりが木の葉のかげに途絶えたのは、それからまもなくのこと。

いい風が吹いてきて、疲れた体を優しくなでていきました。

忙しなく動いていた脚が、ぴたりと止まります。

もう、すっかり疲れてしまっています。

でも、力を振り絞って、脚を上下左右にちょっとだけ動かします。

6本の脚のそれぞれで、木の幹のくぼみをひとつひとつ探ります。

ここでいい。

そう感じたボウですが、なんのことだかわかりません。

でも、とにかくこの場所でいいようです。

木の幹にしっかとつかまると、やがて背中を上下にもぞもぞと動かします。

どうしてそんなことをするのか、ボウは知りません。

でも、とにかくそうする必要があるのです。

ボウの動きが、だんだん大きくなります。

やがて、背中の上の方が、ぱっくりと口を開けました。

どうやらボウは、殻に包まれていたようです。

その割れ目から、ちいさな頭をちょこっとだけ出してみました。

これでよさそうです。

そのまま、頭を殻から引き抜くようにして、顔を上げてみました。

殻の中にあったちいさな黒くてまあるい目も、ちゃあんと出てきました。

もっと透き通った綺麗な目になりましたが、ボウはそんなことを知るよしもありません。

今度は、脚の方がむずむずしてきました。

背中をぐっと殻から引き離します。

殻の割れ目が広がって、背中を出せました。

同時に、脚も殻から抜けました。

お尻はこのままで。

どうしてかわかりませんが、ボウはそうします。

殻の中にお尻を残したまま、頭を後ろにそらします。

柔らかくて細くて透明な脚が、上空に向けてふわりと浮き上がるようです。

ボウは、しばらくじっとしています。

そうしているうちに、柔らかかった脚がしっかりと固まってきたようです。

あれ、背中に何かある。

そうです、ボウのちいさな背中に、薄緑色のそれはそれは素敵な薄い羽が広がっていました。

もう動いても大丈夫。

どうしてかわからないけれど、そう感じます。

ボウは、ゆっくりと殻からお尻を抜きました。

木の幹に脚をかけ直し、今、抜け出たばかりの殻の横にそうっと移ってみました。

空っぽになった殻のそばで、しばらく休みます。

幸いなことに、蟻はもうやってきませんでした。

辺りには、涼しげな秋の虫の声がしています。

もちろん、ボウは涼しいとか秋の虫の声なんて、知りません。

ただ、いいと思えるまで、じっと休んでいるだけです。

 

→ ちいさなボウ〈下〉へ続く